エッセイ(2006年1月)
年頭エッセイ
「英語中心主義が日本をつぶす」 津田幸男
最近『英語を学べばバカになる』(薬師院仁志著、光文社新書)というちょっと変わった
タイトルの本を読んだ。タイトルは変だが、中身はまじめな本である。
著者は「英語にばかり気をとられていると、世界が見えなくなる」と警告している。
アメリカにばかり向いている今の日本人と日本政府のことを思うと、まさに的を得た指摘といえる。 かく言う私は英語教育に関わりながら、「英語支配論」という議論を展開してきた。英語は単なる道具や手段ではなく、今や人や世界を支配する大きな「権力」になっていると指摘して、「英語支配」がもたらすさまざまな不平等、偏見、差別を明らかにしてきた。この視点から、文部科学省が推し進めている「英語中心主義」政策とその危険性について検討してみたい。
文部科学省の「英語中心主義」
文部科学省は、2002年より小学校での英語教育を開始し、近い将来英語を
小学校の正式科目にしようとしている。さらに2003年には「英語が使える
日本人の育成のための戦略構想と行動計画」を発表し、全国民を英語が使える
人間にしようと英語教育の改善に本格的に乗り出した。まさに「英語ができ
なければ、日本人にあらず」という勢いである一方で、国語(日本語)
教育に関する戦略構想と行動計画は皆無である。英語を主とし、日本語を
従に置く「英語中心主義」に陥っているのである。
文部科学省はなぜ「英語中心主義」に陥っているのか?原因は三つある。
一つは、経済界からの要請である。グローバル化に伴い、日本の企業が「英語が使える日本人」を欲しがっているのである。第二に、英語教育を振興すれば、国内の英会話産業や教育産業が利益をあげられるからである。
第三に、自民党政府の「対米追従政策」が教育に反映されているからである。
アメリカの「日本語が貿易の障壁だ」という一方的な非難を受け入れ、「英語が使える日本人」を作ろうとしているのである。
文部科学省の「英語中心主義」は、このように経済界の勝手な要請や屈辱的な日米関係の副産物である。「英語中心主義」は、経済界にとって都合のよい人間やアメリカ化した人間を生み出すだけである。日本人を資本主義体制とアメリカ支配に組み込む政策である。
「英語中心主義」をあおるマスメディア
この「英語中心主義」に対して、マスメディアは「国際化」「グローバル化」と結びつけ「進歩」の象徴として好意的に報道する。
「英語ができることは良いこと、進歩すること」と報道し、「英語支配」による深まる不平等な日米関係や国際関係、世界の言語環境の「英語化」と少数言語の衰退、「英語支配」による精神支配がもたらす言語・文化・アイデンティティの崩壊等の問題にはまったく触れようとしない。
そして、テレビ、ラジオ、新聞でも英語がたれ流され、「英語中心主義」をあおっている。 最近、ある情報誌でCD売り上げのベストテンが掲載されていたので、それを紹介する(資料)。ご覧のとおり、英語だらけで、これを見た外国人は日本の国語は英語だと勘違いするだろう。

日本語中心の教育を
大学でも英語は必修だが、国語(日本語)は必ずしもそうではない。
筑波大学では「英語検定試験」を必修として課しているが、これは過剰な「英語中心主義」である。大学では、国語(日本語)を必修にし、国語(日本語)中心の教育をすべきである。 日本語は、話者数は世界で8番目に多い大言語であり、重要な言語である。
そのことを日本人自体が一番わかっていない。英語に気をとられているのである。
言語は文化の魂である。しかし、日本の社会全体も政府の政策も「日本語中心主義」になっていない。魂を英語に売り渡しているようである。
フランスでは法律で英語の使用を制限している。「英語支配」を警戒しているからである。それに対して、日本語は外来語だらけである。英語への警戒心の欠如である。英語ばかり学んで、日本人は本当にバカになっているのかもしれない。

